概要・年表

リーグ戦復活

23年春は優勝も逃す

復活第1戦も明大が…

 

リーグ戦は21年春から復活した。復活第1戦は5月19日、上井草球場での明帝戦。大正14年秋のリーグ戦第1戦も明大なら(明法1回戦)、復活第1戦も明大というのも奇しき因縁だ。
 
 復活1回目のシーズンは2勝4敗で同率3位。リーグ戦は秋から2回戦制にもどったが、3位。22年も春秋とも3位で、21年に春リーグ戦が復活してから4シーズン連続して3位。明大が戦後に一度も優勝できなかった原因は、早慶に比べて戦前の選手が戻ってくるのが少なかったためとも言われている。
 
 1番苦しい時期にマウンドを死守した小川。攻守の中心となった大塚、中村、土屋、磯田などが頑張ったが、大下、諏訪、生田、加藤政一など、あるいは戦死、あるいは社会人となって再び明大のユニフォームを着なかったことが惜しまれる。
 
 23年春は法大に星を落としたが、早慶から勝ち点を取って勝ち点4で全日程終了。早慶戦で早大が負ければ明大の優勝が決まるはずだった。ところが予想に反して早大が連勝。早明のプレーオフとなった。こうなれば一息ついた明大は不利。1-5で完敗した。
 
 このシーズン、杉下が力投して8勝のうち6勝を稼ぎ(残る2勝は入谷)、打線では常見、野村がともに4割台をマークした。首位打者となった常見昇選手は一度もトップの座を譲らず、50打数21安打、4割2分の高打率で栄冠を獲得した。なお21年秋にも中村茂選手が50安打21打数、4割2分と常見選手と同じアベレージでリーディングヒッターになっている。
 
 この23年春から25年春まで、5シーズン連続2位。そんなとこから”万年2位”というありがたくないニックネームを頂戴した。23年秋は杉下、(5勝)、入谷(3勝)、両投手が頑張ったが、優勝した法大に勝てなかったことが致命傷。24年は杉下、常見、磯田と投打の中心を学窓から送り出しながら、新しいエースの入谷が年間12勝もする力投でチームを引っ張ったものの、いずれも早大に敗れて涙を飲んだ。25年の春もまた早明戦の黒星が敗因となるなど、よくよく早大には煮え湯を飲まされたわけだ。 この間に入谷投手が32勝と戦後最高の勝ち星をマークすれば、永井選手が数々の盗塁記録を塗りかえていった。入谷選手は10シーズンも明大のマウンドを守り、70試合に登板。32勝21敗1分け。32勝の中には7完封、6無四球試合、27回完封勝ちがあり、32勝は当時、戦後明大最高、六大学4位の記録である。
 
 永井選手は11シーズン、95試合で42盗塁、一試合5盗塁、1イニング3盗塁と三つの記録をつくり、本盗5つもおそらく六大学のレコードであろう。この両OBは六大学史上に輝かしい足跡を残した。
 
 又2年4月5日には和泉のグランドを、24年3月には新しい合宿所が完成したことは大きな話題だ。特に22年といえばまだ戦後の混乱期。その中で内野に土盛りのスタンドがあるなど、リーグ戦も出来る立派なグランドに改修したことは特筆したい。22年5月10日の明法2回戦を始め、23年にも3試合、合わせて4ゲームのリーグ戦を和泉で挙行している。合宿所は総2階で和室だけで20室もあるすばらしいものだった。このグラウンドの改修、合宿の建築で、野球部もやっと”戦後”が終わったということになる。
 
 戦後岡田監督でスタートしたことは前にも書いたが、リーグ戦が復活した時は戦前の名将谷沢監督が指揮をとったのは21年春の明帝戦だけ、秋からは八十川畔氏、そして23年からは宮坂達雄氏が監督をつとめ、26年にはまた八十川氏が采配をふるった。しかし一度も優勝しなかったことなどから、野球部改革の声が学校当局から上がり、島岡監督の登場へ発展していく。

 

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