概要・年表

雌伏の時代

32年秋からイノシシのマークを

心機一転最下位から2位に

 

31年から雌伏の時代にはいる。杉本、穴沢、水野、鈴木と黄金時代を支えた選手が残っていたが、31年は春が3位、秋は4位。以後35年まで優勝戦線にも残れなかった。その間32年春に野球部始まって以来の最下位。心機一転、ユニフォームの左袖にイノシシのマークをつけたが、秋は池田の力投もあって2位に躍進した。
 
 31年には池田、岡村、久米、庵野と有望選手の入学を見たが、チームに第二期黄金時代にみせたまとまりがなかったためか。
 
 なお川添選手が33年秋に、翌34年春には高畑選手が首位打者になっている。
 
 35年春のリーグ戦が終わるとハワイ遠征。ハワイでは9試合全勝。とくに全米チャンピオンの南加大に勝ったことが評価され、秋のリーグ戦では優勝候補となったが、予想外の不振で最下位。この年の最上級生は入学した時に、最後のシーズンでごともに最下位という珍しい記録をつくった。
 
 昭和6年に和泉校舎の横に建設したグラウンドが、大学側の要望で移転することになった。先ず35年夏に調布市佐須町にグラウンドが完成。秋のリーグ戦は和泉の合宿所から調布まで練習に通い、新合宿の完成を待って、36年1月に合宿所も引越し、ここに約30年もつづいた和泉時代にピリオドをうった。
 
 グラウンドは柏木から数えて駒沢、和泉、調布と4代目。合宿は駒沢ー和泉ー調布と3代目だが、グラウンドは第1、第2面、合宿は鉄筋コンクリート3階建て。50人の部員を収容。そのほか雨天練習場もあり、合宿は767.08平方メートル、敷地の総面積は27213.61平方メートル。大学野球では代表的な施設だ。
 
 36年春は緒戦の早明戦に連勝したことで波に乗り、慶明戦は4回戦になるなど苦しい試合もあったが、勝ち点5、10勝3敗1分けと完全優勝を遂げた。後藤、八木と左右のエースを二人持ったことが勝因だったが、それより前シーズン最下位だっただけに、いかにも猪武者明大らしいではないか。
 
 27年に異色の監督として登場した島岡監督はこの優勝を土産に勇退。総監督となり、後任監督には明高監督の松田竜太郎氏が就任した。しかし松田監督は1シーズン限りで退任。代わってコーチとして松田監督を補佐した栗崎武久氏が昇格。栗崎監督の下で37年には韓国遠征を挙行した。40年から栗崎監督がやめて、再び島岡監督がユニフォームを着て指揮をとることになったが、入学難も手伝って戦力的にいまひとつ決め手を欠き、それが成績に敏感に反映。36年春に優勝してからは37年秋と40年春に2位になったのが最高だった。
 
 40年代に入ると大学紛争が起こり、その火の手はついに明大にも飛んできた。全学連による大学占拠、それに対抗する大学側のロックアウト。野球部も他の体育会の学生と友に全学連の排除に活躍、身を挺して学校を守ったことを忘れてはならない。
 
 42年などは登録部員が50名になったが、その中で高田、星野両選手が気を吐いた。まず高田選手は40年春に4割で首位打者となったほか、最多安打127本、最多盗塁48個の連盟記録、39年秋から7シーズン連続ベストナインなど数々の輝かしい足跡を残した。とくに7連続ベストナインは現在も破られていないし、4年間、シーズンしかリーグ戦に出場できない現在の学制では、まず破られることはないだろう。
 
 星野投手は41年秋の明立2回戦で、六大学史上14年目のノーヒットノーランゲームを達成した。高田選手は42年度の主将、星野投手は43年キャプテンだが、二人ともプロ野球でも活躍。これほどのスタープレーヤーをそろえていても優勝ができず、両選手が卒業した後の44年春に優勝したのだから、勝負とはわからないものである。
 
 この優勝もまた明大らしい執念の勝利だった。六大学野球年鑑の総評で、”波乱””ハプニング”と16シーズン振りの優勝を総括しているが、まさに「いのちをかけていけ」という島岡監督の執念がこの栄光を呼んだようなものである。10失策の守備力。6試合の1点差を守りきった今井、古屋の左右両エース。打線はチーム打率こそ3位だったが、タイムリーにヒットがでた。そしてコーチャーズボックスに立ちつづけた島岡監督の気力が、選手たちをふるいたたせた。
 
 この優勝こそいかにも明大らしい、“スターのいない優勝”であり、また大学紛争で暗くなりがちの学園に、明るい希望をもたらしたその功績は大きい。その意味でこれまでの優勝にない意義のある勝利であった。
 
 なお43年春には倉田選手が4割4分1厘でリーディングヒッターとなり、45年秋には和泉選手が、明東1回戦から慶明2回戦まで、19打席連続安打の連盟新記録をマークしている。
 

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